学生生活と社会人生活(会社人生活)との違いは何だろうと考えて、
それは切り口の数だけあるのだろうけど、その一つに採点方式の違いを感じることがある。
これまでの生活は、ほとんどが自己採点で済まされていた。
学生時代に大好きだった「目標設定」は、各々の物差しで測られていて、
別に実現しなくとも検証されるわけでもなく、
学業の成績が悪かろうが就活を怠けようが、それを咎める人も家族くらいで、
自分で設定したハードルを自分で越えることに素直に喜びを感じられていた。
ところがどっこい、サラリーを頂いて仕事をしていると、
具体的に設定されたハードルが待ち構えていて、
それを越えたか越えないかを見極める厳しい判定員もセットでいる。
これは大変なことでも有難いことでもあって、
学生時代にはなかった「厳しさ」もあるけれど、
それを乗り越えることの「面白さ」も提供してくれているような気がする。
PCをいじっていたら、大学4年の最後のゼミの小レポートがでてきた。
「大学生活を振り返って」というお題で。
ここで言う「相対化」も学生当時は自分の裁量で良かったのだけれど、
働き始めて、より限られた時間の中で必要な資源を投入して、
それを周りに評価されてという具合に、難易度が上がったようなイメージ。
なかなか学生時代の友人に会うことも少ないけれど、
下記のような(苦悩と言えるほど大そうなものではないけれど)
同じ時間を共有した人たちと、またいつか何かを共有していきたいとも思っていたり。。
◆大学4年間は、自分自身を相対化していくことの積み重ねだったように思う。
大学に入学する以前の18年間は、目の前に設定された「目標」があり、部活動や勉強に勤しむことへ疑問を抱く暇もなく日々を過ごしていた。大学に入学して、一人暮らしを始めたことで、まず生活面で自分を客観視する機会が訪れた。身の回りのことを自分で行うようになり、これまでの実家暮らしでは、如何に家族に依存をして生活していたのかを痛感させられた。また地元を離れたことにより、地元の友人や故郷が、代えのきかない唯一無二のものであることにも想いを馳せるようになった。
こうして、自分の置かれている環境について徐々に客観的に見つめられるようになった頃、次に訪れたのは自分自身の内面について相対化していくという発見であった。それは、友人のふとした「なぜ、政治家になりたいと思ったのか?」という至極単純な「問い」であった。それまでは、自分の過去を見つめながら現在にどう影響を及ぼしているのかという視点がなかったため、この瞬間を期に自分自身の過去を振り返ることで、現在の自分を見つめ直すという思考回路が開通した。更なる発見は、自分自身と他者を比較するようになったことであった。政策・情報
学生交流会に参加したことは、同世代の似たような環境にいる人間が自分とどういった違いがあるか気付かされる絶好の機会であった。同学年にもかかわらず、知識も経験も思考力も遥かに自分より上の次元にいる人々の存在は、今の自分に足りないものを見つける上では大きな参考材料となった。また、他大学の学生と交流することは、自分との比較だけでなく、大学間の違いを実感することもでき、千葉大学の強みや弱みを意識するきっかけにもなっていった。もう一つ重要な比較材料は、「社会」や「コミュニティ」といった集合体における自分の位置付けであった。それは、議員インターンや西千葉の商店街での活動を通して実感したことであり、自分と「社会」との関係性のなかで、何を達成したいのか、なにができるのかを考える契機となった。加えて、ゼミにおいては、持続可能性という現在と未来との比較という発見もあった。
自分自身の置かれている環境、自分自身の過去と現在、自分と似た環境にいる他者、自分と「社会」、現在の自分と未来の「社会」という比較材料を手にし、それらの存在との比較を繰り返してくことにより、自我を形成していくことが大学生活の大きな「成果」であった。これらとの比較のなかで、「人生を通じて何を達成したいのか」「大切にしたい人・価値観はなにか」「自分のやりたいことは必要とされていることなのか」「現状で自分に足りないものはなにか」といった具体的な発問があり、それらと自問自答することで「自分とは何者なのか」という究極的な問いへの回答に、少しは近づくに至った。これらの問いかけは、大学卒業後も延々と続き、更なる問いが浮かんでくるものであるだろう。自分以外の多方面からの問いかけに対して(問題発見)、悩みながらも自分自身で「答え」を出すこと(問題解決)が、総合政策を学んだ一つの意義になっていくものだと考える。
僕から以上。
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