世界報道写真展2011に行ってきました。
毎年開催されているそうですが、僕は今年になって初めて知りました。
もっと前から知っておけば良かったという一心です。
この写真展に行く狙いは、包丁を研ぐような作業に近く、
最近はテレビやネットの無味乾燥な表層的な「情報」にしか触れていなかったので、
ここにいけば普段感じていない「何か」を感じられると企んでいました。
そんな悪だくみをしながら写真を見て回っていても、あまり響いてこない。
異国の悲劇を目の前にして、理解の範疇を超えているのか、受け容れられないのか、
言葉に変換されないまま口が開いているのと眉間が引きつっている感覚がわかるだけだった。
そのなかでも、
メキシコの麻薬紛争
リオデジャネイロの発砲事件
ハイチ大地震
アフガニスタンの少女
には感覚が強くはたらいていた。
展示と並んで東日本大震災のスライドショーを上映しているコーナーがあり、
15分ほどのスライドが流れていた。
このスライドも悪だくみの一環で、何か感じるだろうと期待していた。
気付いたら泣いていた。
震災に関しては、直接的に被害を受けたわけではなく、
知り合いが亡くなったわけでもなかったので、
実感としての震災は僕の中にはなかった。
実際は、直視することを避け続けていた。
感情移入することはできなかった。
そんな「他人事」になってしまっていたものが、スライドを介して一気に入ってきた。
あのスライドを通じて、自分に思い入れのある街ともリンクした。
海岸に近い地元に津波が押し寄せたら、
あのスライドのまま、生まれ育ったまちはなくなってしまうだろうな。って。
自己中心的な考えだけれども、何かしらのリンクがなければ
エールを送ることも感情移入することもできないよ。
世の中で起きているニュースは、
自分と関連付けることができなければ実感のない「他人事」のままなんだなって。
それは、ニュースを拾い集める作業と、関連付ける「自分」を拡げる作業のどちらも重要なわけで。
「喪失体験」は、人を突き動かす大きな要因であって、誰しも抱えている部分なんだよね。
それは、「何を大切にして生きていくのか」とも近くて、
生きている意味って言ったら臭すぎるけど、
それを明確にしていく作業は忘れてはいけないと思う。
報道の持つ意味も再考させられた。
この写真展は、どの部分を切り取っているかは別として、ありのままを写していた。
普段は無意識的に報道というより一種の「ショー」を見せられている。
報道の価値は、その報道を自分自身のなかで解釈して関連付けられてはじめて意味を成すんだなって。
そして必要な情報は自分でキャッチしなければならない。
更に言うなら、報道の真偽を確かめたければ自分の目で見に行かなければならない。
情報の海の中で報道を自分で精査できるようにならないと。
それができないことの恐ろしさって、考えただけでぞっとするよ。
World Press Photo のサイトで写真を見ることはできるが、
このサイトは事後的に見直すことに使うほうが効果的。
時間があればぜひ見に行ってほしいです。
8月9~18日は梅田で展示されています。
文字情報で伝えられることって本当に僅かで
表現方法として写真や映像を使用する人は、そういった魅力を感じて
媒体として選んで情報伝達しているんだなって。
何を大切にして生きていくのか、を考えさせられた写真展でした。
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